中国の大相国寺は、河南省、開封市にあります。開封[東京(とうけい)、汁汴(べんけい)とも称されました]は「水滸伝」の舞台としても知られ、かつては戦国時代(前5~3世紀)、魏が都とし、唐以降も後晋、後漢、後周、北宋などが都をおきました。宋時代(1~13世紀)にもっとも栄え、開封城は三重の城壁に囲まれ、外濠がめぐらされていました。現在もその一部が残っています。
開封の相国寺は、北斉の天保6年(555)に創建された建国寺がはじまりで、やがて寺運は衰微し、荒廃してその跡すらわからなくなっていました。後に慧雲という僧がこの地の福慧寺にとどまり、唐の景雲2年(711)、寺の北にあった手鄭景の宅を買い取り、一丈八尺の弥勒像を安置すべく地中を掘ったところ建国寺の碑が出土したため、その跡地であることを知り、福慧寺を改め建国寺としました。
延和元年(712)唐の睿宗は勅をもって名額なき寺をとり毀そうとします。慧雲はこれを嘆き丈八の弥勒に祈願し、奇端を垂れんことを乞うたところ、弥勒像は金色の光を放ったといいます。人々はこれを聞き、争って参詣し、探訪使の王志惜はこの様をつぶさに奏聞しました。唐の開元元年(713)睿宗は建国を改め「相国」と寺額を親書して賜わり、相国寺と改名されます。宋の太宗は寺名を大相国寺と改め、六十四禅律院を広げ、大相国寺は宋代抃京一の大寺となりました。

 

 

 

 

 


日本の相国寺は、室町時代永徳2年(1382)、三代将軍足利義満が一大禅院の建立を発願、建立にあたってその寺号について春屋妙葩及び義堂周信にはかったところ、春屋妙葩は「現在、あなたは左大臣の位にあり中国ではこれを相国といいます。相国寺とつけてはどうか」、義堂周信は、「中国の都、東京(開封)に大相国寺という寺があり、まさに恰好の名前ではないか」と進言しました。
中国の相国寺は五山制度の濫觴(はじめ)で、義満の新寺は相国寺を称し日本の五山の最後を飾りました。
清末以降大相国寺は万商雲集の市場となり、法燈伝承は困難となりました。
昭和58年4月、日中友好臨済黄檗協会主催の第二次友好の翼訪中団に同行して、日本の相国寺代表団が初めて開封の大相国寺を訪れました。その時の大相国寺は住職もおらず、開封市文物管理局の管理下で一部は博物館になっていました。これを憂い、同年11月、住職の派遣と日中両相国寺友好寺院締結を要請し、中国仏教協会趙撲初会長に宛てた日本の相国寺管長の親書と、寺院の復興を願う日本国民の写経二千数百巻を携え、再び訪中団を派遣しました。

 


 

 

 

 

 

 

 

その後、黄河の氾濫十五回、兵火にかかること十一回、大火六回など、災害のたびに開封城と盛衰を共にします。
日本の五山制度は中国の五山制度に習ったのですが、時の政府によって定められた最上位の寺格を有する五ヶ寺を「五山」と呼びました。中国では唐時代はまだ官憲の保護を受けることはありませんでしたが、北宋にいたり元豊5年(1082)、神宗帝の詔により相国寺の64院を分かって六律二禅、すなわち律僧六に対し禅僧二の割合で住せしめました。これが禅宗に対する官僚統制のはじまりであり、後の五山制度につながっていきます。
元豊6年(1083)、神宗は相国寺内に慧林院を開き、杭州浄慈寺から法空宗本を請じて住せしめ、宗本は華厳禅を提唱して大いに法幢をたてました。
憲宗の成化二十年(1484)に崇法寺と改められましたが、崇禎15年(1642)の黄河氾濫で大打撃を受け、清朝の順治16年(1659)に復旧し、再び相国寺と改められました。高宗乾隆31年(1766)に大修復がなり、現在の大相国寺はその時のものです。
特に羅漢殿の威容は堂々たるもので、八角円堂本瓦葺き、周囲に八角の回廊を廻らし、外側に勾欄を設けています。かつては五百羅漢がまつられていましたが今はなく、かわりに銀杏の一木彫りの四面観世音菩薩が安置されています。

 

 

 

 

 

平成4年11月、開封大相国寺、本尊開眼、新住職晋山式典に参加するため、梶谷宗忍相国寺派管長を団長に訪中、併せて日中両相国寺友好寺院の締結調印が行われました。時あたかも日中国交回復20周年にあたり、日本の相国寺の熱心な呼びかけと、中国の開放政策、趙撲初中国仏教協会会長らの努力によって、ようやく中国大相国寺に住職を迎えることができ、宗教活動が行われるようになります。

 

平成六年四月、日中両相国寺友好を謳った記念の石碑が相国寺境内に建立され、真禅中国仏教教会副会長・大相国寺住職ら臨席のもと、除幕式が行われます。同じ趣旨の石碑が同年9月中国大相国寺にも建立され、訪中団を派遣しました。
石碑はインド産黒御影石で吉野の自然石の台座を含めて高さ2メートル余り。表面は龍と波の地紋に趙撲初会長の書で

「佛暦二千五百三十七年佛吉祥日/中国開封大相国寺/日本京都府相国寺/友好記念碑」

と刻まれ、裏面は梶谷宗忍管長の筆になる次の銘文が刻まれています。

「日本国京都市相国寺ハ、ソノ創立当時ニ中国開封市大相国寺ノ寺号ヲモッテ寺号トシタ。コノ深イ因縁ニヨリ、開封大相国寺ト友好寺院ノ提携ヲシタソノ歴史的意義ヲ永ク後世二伝エルタメ、コノ記念碑ヲ建立スルモノデアル。/于時平成六年四月吉辰/大本山相国寺住職梶谷宗忍」

 

[中国仏教の旅(美術出版美乃美発行)、「大相国寺」 有馬賴底執筆部分参考]

 

 

 


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